先祖調査 ~聖地へ行く②~

 っちゅうわけで、一通り先祖のお話を頂き、私は先祖の家を後にした。お墓の場所を教えて頂き、帰りがけに先祖の墓参りをしてきた。お墓は家から車で5分程度の山中で、森元家のお墓のエリアには新しいものから、古いものまで多数あった。見るからに古いお墓は表面の摩耗が激しく、もはや文字も読めないものもあったが、一基、辛うじて文字が読めるものが。造右衛門様のお墓である。嗚呼、造右衛門様!ついにお会いすることが出来ました!

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造右衛門様のお墓!ちゃんと管理されていてなにより!

 かくして私は無事、墓参りを果たした。しかし、文字すら判別出来なくなっていた古いお墓は誰のものなのだろう?もっと古い先祖のものであろうか?色々と疑問が沢山あるのだが、もはや家をおいとました後なので、聞きに戻るわけにもいかないし。私は後ろ髪を引かれる思いでお墓を後にした。というわけで、今回の訪問で解決出来たこともあるのだが、新たな疑問が湧き上がってきたことも事実である。また鹿児島に来て第2段の調査をしたいなぁ~。やればやるほど、新たな課題が出てくるのである。かくも先祖調査は興味深いものなのである。にしても、鹿児島は遠い。熊本に住んでいるときにもっと調査しておけばよかった。。。

 帰りがけに、南州墓地で西南戦争戦没者碑を見てきた。我が家系の人が居るか確認したかったのである。「~元」のように、「本」ではなく「元」を姓に使うのは鹿児島の特徴である。本家のレジェンドによると、これは島津家に仕えた家の特徴らしい。「山元」や「坂元」などはとてもポピュラーな姓のようで、戦没者碑に多数刻まれていたが、「森元」姓は碑に1名だけであった。我が家系の方ではないと思われるが、「森元」姓は鹿児島でも比較的マイナーなようである。

 色々とあったが、第一目標の墓参りは無事にミッションク出来た。だが、もっと調べたいこともある。これからも調査は継続したい、と思っている。だが、時間は掛かるだろうなぁ~。ライフワークなのである。

 

先祖調査 ~聖地へ行く①~

 昨年の某月某日、私は薩摩の地に降り立った。全く見ず知らずの本家に連絡し、「いつでも先祖の墓参りに来て下さい~」という社交辞令を真に受け、ノコノコと来てしまったのである。だがこうして厚かましい振りをしないと、2度とチャンスは訪れないだろう。熊本に住んでいた時代には鹿児島にも時々遊びに来たことがあるが、やはり鹿児島はとても心地よい。やはり私にも薩摩の血が流れているからだろうか。

 

 2日目、生まれて初めて先祖の町へ向かう。鹿児島市街地から車で40分程度である。海に面した町だが、先祖の地は海沿いではなく、かなり山中である。山道から更に脇に入り、更に細い山道を分け入った山中に本家はあった。当然だが表札は「森元」である。そうか、先祖は代々、この地で生活してきたのか。我が同胞はここにいたのか。父はここに疎開していたのか。そして私にはこの土地の血が流れているのか。私はついに帰ってきたのだ!嗚呼、これぞ魂の昇華!

 

 私の血筋は曽祖父で本家と分かれているが、こちらには本家筋の90歳を越える、とてもお優しいレジェンドのお婆様が住んでおられ、突然現れて親族を名乗る、胡散臭い私を歓迎して下さった。こちらの方が祖父母や父兄弟のことを覚えておられた。祖父母は昭和初期に鹿児島を離れ、大阪に移ったのであるが、戦争が始まり、最初に父兄弟ら子供だけが縁故疎開で本家に預けられた。やがて都市部の空襲が激しくなると祖父母も一時的に鹿児島に戻り、戦後暫くは、本家の近くで住んでいたらしいが、その時に親戚付合いがあったようだ。そして我が先祖について。江戸時代、この付近一帯は薩摩藩直轄の広大な野牧場であったが、森元家は先祖代々、野牧場で馬の世話係を仰せつかっていたらしい(※1)。そうだったのか~。後になって知ることであるが、この付近の小字の名前は、「半太郎掘」や「市蔵掘」といったように、「人名」+「堀」が多い。「堀」とは、野牧から馬が逃げないように「堀」を作ったということであり、その付近の堀を管理した人の名前が「人名」に当たるものと思われる。実際に、本家付近の小字名も、「○○堀」というが、「○○」は、私の先祖の名前なのである。我が先祖がこの付近で野牧の堀を管理しており、それがそのまま小字の名前として残ったのではなかろうか。点と点が線で繋がるとはこういうことなのか。

 

※1)伝承では、天正三年(1575年)には、藩主島津義久が牧場で二歳馬を苙に追込み、捕えていたというので、歴史の長い野牧場だったと思われる。その後も、常に300匹程度の若馬が放牧されていたが、幕末~明治初年に廃止されている。藩政時代は年に2回、馬を苙に追い集め、藩に差し出す行事があり、その時はお祭り状態となり、武士・農民関係なく大勢の人が見物に訪れたらしい。割り当てられた郷士は、1ヶ月程度前から準備をしたり、前日には法螺貝を吹き、郷中に馬追いを知らしめたりしたらしい。我が先祖もその時、馬追いの準備に従事していたのだろうか。

先祖調査9 ~図書館は神様です~

 話はまた、最近の話に飛んでしまうが、金禄公債證書渡牒のような、先祖に繋がるような資料を鹿児島県立図書館の蔵書で発見して以来、私は目ぼしい資料を検索しては、コピーを取寄せている。しかしながら、取寄せてもほぼ全ては徒労に終わり、なかなか先祖に関わる記述に出会うことが出来ていない。だが当たりを付けて取り寄せないことには進まない。そんな感じで、コピーを取寄せていたら、大量の古文書のコピーが送られてきた。こりゃあ、さすがに読めない。私は早々に諦め、その資料達は、十分に目を通さないまま部屋の隅で眠っていたのであるが、先日、改めて見直してみた。何度見ても、古文書は読めないのであるが、その中に重要な資料が紛れていることを発見したのである。その資料の名前は、「蔵米家禄人名杪」という。明治初期に作成された郷士の家禄に関する資料のようであり、崩し文字になっておらず、私でも読むことが出来た。どのような目的でこの「蔵米家禄人名杪」が作成されたのかは分からないが、もしかしたら、交付する金禄公債を決める為に、郷士の家禄一覧を作成したのかもしれない。この辺は是非とも専門家に教えて欲しいものである。さて、この「蔵米家禄人名杪」、各郷の郷士の家禄が記載されているのであるが、ということは、もしかしたら、あの方の名前も。。。

 

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「蔵米家禄人名杪」。こんな貴重な資料が紛れていたことに気付かなかったなんて。迂闊であった。

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三石六斗。身分は「同卒」と書かれているが、どうやら郷士は「士族」ではなく、「卒族」(足軽など、ワンランク下の身分)の扱いだったらしい。

いました!造右衛門様である。また会うことが出来ました!造右衛門様の石高は、、、三石六斗。少なっ!だが、多くの郷士が三石六斗のリストに名を連ねている。恐らくは、特に少ないというわけではなく、薩摩の郷士は、概ねこの程度であったのであろう。それにしても、米一石は150kgであり、江戸時代では概ね一両に相当する。一両=十万円と仮定すると、、、まぁ、なんというか。5人家族としても、年間で三石六斗=540kgでは、とてもではないが、家禄だけでは養いきれない。武士とは言っても郷士の生活はとても厳しく、農耕などの副業をせざるを得なかったのであろう。そして、江戸時代の家禄は、通常は世襲制なので、我が森元家の先祖は代々、いつからかは分からないが、この地でこの苦しい家禄の下、世知辛く理不尽な世を生きてきたのであろう。まぁ、多くの郷士が似たような生活だったのであろうが。

 

 今回、「蔵米家禄人名杪」から先祖の家禄を知ることが出来、少しずつ先祖の生活が見えてきた。それにしても鹿児島県立図書館にはまだまだ貴重な資料が眠っているかもしれない。図書館は宝庫なのである!

先祖調査8 ~ブラタモリしてみました~

 前回、土地台帳について言及したが、少し脱線したい。前回も書いた通り、土地台帳を通して、その土地の歴史を知ることが出来るのである。先祖とは全く関係無い場所だが、私には、なじみのある、とある場所があり、そこを通る度に色々と気になるのである。もしかしたらそこはかつて、そうだったのではなかろうか?などと思うのである。なぜなら、その場所には、かつてのそれを思わせるような遺構というか、痕跡のようなものが目に付きにくいところに転がっていたりするのである。地元の人いわく、「大昔はそうだったらしい」と言う人もいれば、「違う」という人もいる。確かめずにはいられない私。というわけで、地方法務局で土地台帳を調べてみた。土地台帳の地目欄や地図を見れば、歴史が分かるのである。で、どうだったかというと、、、

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とても気になるのは、赤枠の場所である

これは、付属地図であり、正しくは、「土地台帳に準ずる公図」という。明治初期のその土地付近の地図である。私が気になるのは、この赤枠付近である。で、拡大してみると、、、

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そこは「墓地」だった!

そうなのである。そこは今は単なる藪なのだが、墓地を思わせる痕跡がひっそりと残っているのである。予想通りだった。まぁ、昔は至る所に墓地が散在していたわけで、元・墓地なんて珍しくともなんともないけどね。「あそこは江戸時代は刑場だったらしいよ」という人もいたのだが、さすがにそれは違っていたようだ。ちなみに、江戸時代に刑場だった場所は、土地台帳の地目欄に「行刑場」や「仕置き場」と書かれるのだが、レア過ぎて今まで見たことがない。見たことがある人がいたら、是非とも教えて頂きたい。普段何気無く散歩する道も、こうやって痕跡から歴史を知ることで新しい魅力が発見出来るのである。なんかブラタモリみたいな感じになってきた。

 ちなみに、土地台帳は法務局で無料で自由に閲覧出来る。閲覧したい地番を申請すると、分厚いファイルを持ってきてくれるのだが、ここから先の対応は地方法務局によって異なる。原則は、基本的には申請した地番しか閲覧出来ないことになっており、係の人が目を光らせているまじめなところもあるが、ファイルを持ってきたら放置してくれるところもある。こういう局なら先祖が住んでいた場所を調査し易い。当時は○○村に住んでいたらしい、ということさえ分かっていれば、その地域の土地台帳を全部調べ、土地所有者の名前と先祖の名前が一致し、尚且つ地目が「宅地」になっているところが、即ち、先祖の居住地であった場所である。気合いがあれば大丈夫!

先祖調査7 ~ファーストコンタクト~

 よく見てみると、明治初期の居住地は「鹿児島県~~村○○○番戸」であるが、次の戸籍では「××××番地」である。これは、戸籍調査でよく遭遇する番地番戸問題である。戸籍を作成した目的は、地租を確実に徴収することであったが、それには村人の居住地を明確にする必要がある。そこで明治政府は、各家に番号を割り振ることとしたのである。これが「番戸」である。地域によっては、「番屋敷」と表記することもある。だが、その後、土地台帳を作成するにあたり、各家ではなく、各土地に対して番号を割り振ることで居住地を表すこととなった。これが「番地」である。従って、○○○番戸と××××番地は、リンクしない無関係の数字であり、同じ家なのか、引っ越したのかが全く分からないのである。もうここまでくると、土地台帳(※1)などを調べないと関連が分からないのである。

 

 それはさておき、とにかく我が本家の連絡先を知ってしまった。もしかしたら墓参り出来るかもしれない。どうしよう。電話してみるか?極度の人見知り人間である私は1ヶ月程度苦悩した。散々迷った挙句、突然スイッチが入り、或る日電話してしまったのである。突然電話を掛けてきて、遠い親族だけど、先祖の墓参りをしたいとか、、、。完全にオレオレ詐欺である。その証拠にほら、電話口のお婆さんがめちゃくちゃ不審そうにされているではないか。まずい、このままでは切られてしまう。私はとっさに祖母・祖父の名前を口にした。するとなんということか、その方は遥か昔にまだ鹿児島にいた頃の祖父母のことを知っているようで、一気に警戒心を解いて下さった。そして嬉しそうに言ってくれた。

「あ~、あんたはあん人らのお孫さんね~」

「はい、実はそうなんですよ」

「お二人とも元気にしてますか?」

「いや~二人共に45年くらい前に亡くなってますよ~」

「あらぁ~、、、そうなの?確か子供は、男の子ばかり、5人ほどいたかねぇ」

疎開で来ていた父達のことである!四男が父だ。幼き頃の父を知っている人がいるなんて。

「今度、先祖の墓参りに行っていいですか?」

「もちろんいいですよ、いつでも来て下さい」

ファミリーヒストリーみたいになってきた!ご先祖様、会いに行けそうです!

 

※1)土地台帳とは、その土地の成り立ちや変遷をまとめたもので、地方法務局で管理されている。戸籍は直系者しか取得出来ないが、土地台帳は申請すれば誰でも取得出来るのである。手続きは若干面倒ではあるが、土地台帳には先祖に関する情報が沢山記載されているので、マストアイテムである。例えば、土地台帳は明治20年頃に作成されたのであるが、その時の土地所有者が記載されている。この時点でその土地を所有していたということは、かなりの確率で江戸時代からの所有者であり、即ち江戸時代からの住人であろう(もちろん断定は出来ないけど)。また、土地台帳には戸籍にも記載されないような、その土地の小字が記載されているのである。小字とは、昔からのその土地付近のごく狭いエリアの地区名称のようなものであり、その土地の歴史に因んだ名称であることが多いのであるが、私はこの土地台帳から重要な情報を得た。詳細は書けないが、なんとこの地の小字名は、江戸時代の我が先祖の名前に由来するものであった。もうこれは、我が本家は少なくとも江戸時代から移住する無く、今もこの地に住んでいると判断してよいであろう!

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土地台帳に付属する明治20年ごろの地図も請求出来る。ここにも小字が記載されている。

 

 

先祖調査6 ~いずこに?~

 さて、話は森元家に戻る。先祖調査の鉄則。年長の親類に聞け。年長者の情報に勝るものはないのである。というわけで、伯父(父の兄)と話す機会があったので、疎開先であった鹿児島の森元家について聞いてみた。だが、わが父もそうだったが、兄弟達は疎開先の鹿児島には、あまりよい思い出が無いようである。それでも、最初は祖父方の馬場家に預かってもらっていたが、追い出されて祖母方の森元家に預かって貰ったことや、馬場家では、家の子供が柿の実を取るのは笑顔で許されるのだが、父ら兄弟がそれをすると、彦太郎という爺さんから烈火の如く叱られた(笑)ことなどを知ることが出来た。まぁ、とにかくそんな感じのことが沢山あったのだろう。あまり思い出したくないようで、森元本家がまだ鹿児島にあるのか尋ねてみたのだが、「さぁ、どないなっとるんやろうなぁ。もう家なんか無くなっとるんとちゃうか」と軽くいなされてしまった。そうか、もう無いのか。

 

 後日、電話帳のサイトで、明治19年戸籍に記載された3桁の数字の住所で検索してみた。だがそこに登録されていた人は予想通り、森元姓ではなかった。。。やはりもうそこには居ないのか。私の先祖はどこかで無縁仏となっているのだろうか。ご先祖様、すいません。手掛かりが無くなりました。墓参りは出来なさそうです。ありゃ、よく見てみたら次の明治31年戸籍では居住地表記が異なっているではないか。こっちは4桁の数字になっている。こっちが正解なのか?でもなぁ~。それからも100年以上経過しているわけだし、区画整理とかで居住地表記も変わっているだろうし、何もヒットしないよね、きっと。ダメモトで試しにこっちの4桁の住所で検索してみると。f:id:bbbshinya:20200215215604j:plain

森元家を発見!

森元姓が出てきた!居るではないか!我が同胞は未だ明治中期と同じ地で暮らしているのである。居住地表記は100年以上も変更されなかったようである。でも、明治初期とは異なる居住地である。明治19年以降に引っ越したのか?

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明治19年戸籍と31年戸籍では住所が異なる

 

先祖調査5 ~ところで母方~

 さて、これまで父方の先祖について書いてきたが、今回は母方先祖の調査状況について、ちょいと書いてみたい。母方の先祖についてはまだ調査は殆ど進んでいない。しかし、父方の森元家は謎の家系であり、ほぼゼロからの調査であることに対し、母は本家出身であったこともあり、最初から多少の予備知識は持ち合わせている。

 

 母は旧姓を松浦といい、実家は奈良の五條で、昔は材木商を営んでいた。かなり裕福であったようで、本業の商売に加え、沢山の土地持ちであったようだ。明治34年生まれの祖母が若き日々が最盛期だったようで、祖母には沢山の逸話がある。

・遊びにいくときはいつも髪結いさんのセットがあった(お葬式に来た祖母の友達談)。

・沢山の丁稚がいた。そして最も出来のいい丁稚を選び、婿にした(=後の祖父)。

・祖母が修学旅行に行く際、お付きが同行した。ちなみにそのお付きとは丁稚時代の祖父。

 

などなど。しかし華やかな生活は、奴らが日本に上陸したときに終わった。GHQである。戦後、奴らの農地改革により、持っていた土地は全て政府にタダ同然で買い上げられて、材木商は廃業となり、苦難の戦後復興を歩むこととなったのである。ちなみに母は、小学生のころ、梅津かずお先生と同級生だったらしい。まことちゃんに登場する「マッチョメマン」は、五條の菓子メーカー「松長製菓」から由来していることは我々世代なら誰もが知るところであろう。

 

 だが、祖母より前のこととなると、殆ど情報が無い。先日、叔母(母の姉)と話す機会があったので、松浦家はいつから材木商を営んでいたのか、聞いてみた。だが「そんなん知らんわ、安吉さんていう人がえらい儲けてはったらしいけどなぁ」であった。知らないのか。う~ん、でも意外とそんなもんかも知れない。本家だからといって、先祖のことを何でも知っているわけではないのだ。ところで、安吉様という方、母の戸籍に名前だけ登場する。祖母の祖父である。

 

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母方の戸籍。祖母の祖父として名前だけ記載されているのである。

 さて、安吉様については、奈良県立図書館で興味深い資料を見付けることが出来た。「實業重寶」といい、大正6年奈良県下の商人一覧のようなものである。安吉様は本当に「えらい儲けてはった」のか?勝手に分析してみた。

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松浦安吉様、大正6年に大活躍!

まず、左上に書かれている「十八、000」であるが、これは直接国税として18円納付していますよ、というアピールと思われる。直接国税とは、読んで字のごとく、国に直接納付する税金であり、具体的には所得税と地租(現在の固定資産税)である。実際には直接国税による国の収入は、殆どが地租によるものであり、概ね、直接国税≒地租と思ってよい。大正6年当時、直接国税を十円以上納めている者のみに選挙権があり、これは全日本国民の1%程度であったらしい。即ち、直接国税十円以上というのは、ステータスであり、商売人にとっては、「信頼出来るお店ですよ~」という根拠だったのではないか。安吉様は十八円も納付していたので全力でアピールしているのである。

 

当時の十八円は、概ね現在では300,000円程度であり、当時の地租は地価の2.5%である。ということは、現在でいうと持っていた土地は50,000,000円程度ということに。ありゃ、まぁ凄いけど、大地主という程ではないかな。う~ん、計算が間違っているのだろうか。正しい計算方法を知っている方がいたら、是非とも教えて頂きたい。ならば、ちょっと強引ではあるが、全日本国民の1%というところに着目してみる。今の世の中で、国民の1%というのは、年収20,000,000円以上の人達らしい。安吉様は十八円と、倍近くの金額を納付していたわけなので、年収40,000,000円といったところだろうか。うわ!こりゃすごいね。叔母の言う通り、材木商・安吉様は「えらい儲けてはった」のである!

 

 今回、少なくとも大正6年には松浦家では材木商を営んでいたことが分かった。が、いつからなのかは、まだ分かっていない。今後も調査を進め、新たなことが分かったらまたupしたい。

 

 ところで、この「實業重寶」はなかなか面白かった。我が町、三郷町の商人についてもしっかりと記載されていた。

 

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莫大小とはメリヤスのことである

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今も昔も信貴山は寅推しだったらしい

ちなみにこの「實業重寶」、奈良県立図書館に、松浦安吉という五條の材木商について質問したところ、わざわざ蔵書からこの資料を探し出してくれたのである!奈良県立図書館もまた神対応だったというお話。