先祖調査15 ~郷土愛の塊のような本を見つけた③~

 さて、この森元平角なる人物、何者なのか?まず考えないといけないのは、たまたま苗字が同じだけの人ではないのか?ということである。結論から言うとその可能性は低いと思う。明治初年の士族の退職金である金禄公債は、ほぼ全ての士族が受領しているはずだが、市来郷の受領録で森元姓は、高祖父の造右衛門様のみであった。従って、少なくとも幕末~明治初年の市来郷士族399人の中で、森元姓は我が家系のみである。では、平民(※1)ではどうか?一般に江戸時代、平民は苗字を持っていなかったと思われているが、これは間違いである。公には名乗れなかっただけで、自分で勝手に付けた苗字は罷り通っていたのである。例えば、検地帳などは公の文書なので、苗字は記されないが、神社などの寄進録には苗字が記されることも多い。しかしながら、平民の多くは住んでいる場所や、職業に因んだ苗字を名乗ることが多く、森元姓を名乗る可能性は低いと思われる。ちなみに、参考データとして1970年時点でのこの地域のゼンリン住宅地図をくまなくスキャンしたが、我が本家以外に森元家は見付からなかった(もうちょっと昔の住宅地図があればいいのだが)。これらの状況を踏まえると、市来郷に他の森元家がいた可能性は低いと思う。もちろん、他郷には別の森元家もあるのだろうが、異なる地域の神社にわざわざ寄進するとも思えない。ということで、森元平角なる人物は、我が血縁である可能性が高いと思うのである。もうちょい明確な物的証拠があればすっきりするのだが、この時代のこと、どうしても状況証拠から推測せざるを得ないのである。

 

 私は当初、平角様は作左衛門様の父親であろうと思っていたのであるが、最近ちょっと自信が無くなってきた。実は、「平角」とは幼名ではなかろうか?ということである。一般的に男子は、16歳で元服し、名前を幼名から「~衛門」や「~兵衛」などという元服名に改めることが多い。そして「平角」という名前は、いかにも幼名っぽいのである。う~む、どうなのだろうか。素人の私には分からない。こちらは「串木野郷士明細帳」という、お隣の郷の士族名簿のようなものである。例えばこちらの方々は、

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星原平角クンは6歳!

         

        当年八十歳 家督 星原惣右衛門

          同 六歳   嫡子 星原平角

 

である。八十歳でまだ家督を持っているとか、その嫡子が六歳とか、色々と別の疑問が湧くが、それはともかくとして、こちらのご家族においては、「平角」君は六歳なのである。もちろん、時々、家督を持っている人が「八郎」とか「市二」とか、幼名っぽい名前であるケースもある(といっても、素人の私には、「幼名」を正確に識別出来ているわけではない)。だが、どうしても違和感があるのだ。「森元平角」様は「森元作左衛門」様の幼名なのだろうか?戸籍によると、造右衛門様は、嘉永六年に家督相続しており、このときに作左衛門様は亡くなったと思われる。

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嘉永六年家督相続 ペリーが浦賀に来たときである

60歳で亡くなったと仮定すると(※2)、寄進碑が建立された享和三年当時は、作左衛門様は約6歳となる。既に生まれており、恐らくまだ幼名であろう。う~ん、一応時間的には矛盾しないが、どういう状況だろう?手洗い鉢などを寄進して、子供を大事に思うあまり、その名前を刻んで貰ったという状況だろうか?う~ん、これはこれで違和感がある。子供を大事に思う気持ちは今も昔も普遍のものだが、わざわざ戸主を差し置いて、子供の名前を寄進碑に刻むような、現代風で平和な価値観が当時の薩摩にあっただろうか?断トツで封建王国だった江戸時代の薩摩である。そんなことはしないような気がする。それほど戸主の力は家族の中で絶対だったのである。

 

 というわけで、素人には判断出来ない要素が多く(※3)、はっきりとは分からない。もし「森元平角」が幼名なら、作左衛門様か、若しくはその兄弟か。さもなければ、父親ということになろう。だが、現在のところ、6:4程度で幼名の可能性が高いと思っている。調査を進めれば、いつか判明する日が来るだろうか。

 

 いや~、本当に貴重な資料であった。徳永先生、有難うございます!そして、本で見るだけでなく、是非とも実物を見に行きたいものである。だが、この本は昭和50年の版である。石碑の風化はどんどん進んでいるであろう。早く2度目の鹿児島行きを果たさねばならない。だが今は、コロナのせいで何も出来ないのである!

 

 

※1)あまり「平民」などという言葉は使いたくないが、歴史的な用語なので、敢えてそのまま使うことにする。ご了承頂きたい。

※2)江戸時代の平均寿命は30~40歳程度であるが、それは乳幼児死亡率が非常に高いからである。これを乗り切った人達の平均寿命は概ね60歳程度であった。造右衛門様も約60歳で亡くなっている。

※3)そもそも、元服とか改名とか幼名とかは、旗本などのそれなりに身分のある武家の儀式であろうと勝手に思い込んでいたのだが、農村に住む郷士でもこのような習慣があったのか?それすら素人の私には分からない。