先祖調査 ~聖地へ行く①~

 昨年の某月某日、私は薩摩の地に降り立った。全く見ず知らずの本家に連絡し、「いつでも先祖の墓参りに来て下さい~」という社交辞令を真に受け、ノコノコと来てしまったのである。だがこうして厚かましい振りをしないと、2度とチャンスは訪れないだろう。熊本に住んでいた時代には鹿児島にも時々遊びに来たことがあるが、やはり鹿児島はとても心地よい。やはり私にも薩摩の血が流れているからだろうか。

 

 2日目、生まれて初めて先祖の町へ向かう。鹿児島市街地から車で40分程度である。海に面した町だが、先祖の地は海沿いではなく、かなり山中である。山道から更に脇に入り、更に細い山道を分け入った山中に本家はあった。当然だが表札は「森元」である。そうか、先祖は代々、この地で生活してきたのか。我が同胞はここにいたのか。父はここに疎開していたのか。そして私にはこの土地の血が流れているのか。私はついに帰ってきたのだ!嗚呼、これぞ魂の昇華!

 

 私の血筋は曽祖父で本家と分かれているが、こちらには本家筋の90歳を越える、とてもお優しいレジェンドのお婆様が住んでおられ、突然現れて親族を名乗る、胡散臭い私を歓迎して下さった。こちらの方が祖父母や父兄弟のことを覚えておられた。祖父母は昭和初期に鹿児島を離れ、大阪に移ったのであるが、戦争が始まり、最初に父兄弟ら子供だけが縁故疎開で本家に預けられた。やがて都市部の空襲が激しくなると祖父母も一時的に鹿児島に戻り、戦後暫くは、本家の近くで住んでいたらしいが、その時に親戚付合いがあったようだ。そして我が先祖について。江戸時代、この付近一帯は薩摩藩直轄の広大な野牧場であったが、森元家は先祖代々、野牧場で馬の世話係を仰せつかっていたらしい(※1)。そうだったのか~。後になって知ることであるが、この付近の小字の名前は、「半太郎掘」や「市蔵掘」といったように、「人名」+「堀」が多い。「堀」とは、野牧から馬が逃げないように「堀」を作ったということであり、その付近の堀を管理した人の名前が「人名」に当たるものと思われる。実際に、本家付近の小字名も、「○○堀」というが、「○○」は、私の先祖の名前なのである。我が先祖がこの付近で野牧の堀を管理しており、それがそのまま小字の名前として残ったのではなかろうか。点と点が線で繋がるとはこういうことなのか。

 

※1)伝承では、天正三年(1575年)には、藩主島津義久が牧場で二歳馬を苙に追込み、捕えていたというので、歴史の長い野牧場だったと思われる。その後も、常に300匹程度の若馬が放牧されていたが、幕末~明治初年に廃止されている。藩政時代は年に2回、馬を苙に追い集め、藩に差し出す行事があり、その時はお祭り状態となり、武士・農民関係なく大勢の人が見物に訪れたらしい。割り当てられた郷士は、1ヶ月程度前から準備をしたり、前日には法螺貝を吹き、郷中に馬追いを知らしめたりしたらしい。我が先祖もその時、馬追いの準備に従事していたのだろうか。