先祖調査18 ~南の島~

 私の父方祖父の旧姓は馬場である。祖父は私が5歳ごろに亡くなっており、祖父の事は殆ど何も覚えていないので、もちろん祖父の兄弟の名前も古い戸籍を見て初めて知ったのである。そんな祖父の兄弟で、目に止まった人がいた。A雄さんといい、祖父より6歳下で明治44年生まれであるが、その馬場A雄さんは、昭和15年南洋群島トラック諸島夏島トラック医院で亡くなっている。トラック島と聞くと、太平洋戦争激戦地のイメージが強く、「自分の親族にもやはり戦争で亡くなった人がいたのか」と思っていたのであるが、よくよく考えてみると、太平洋戦争が始まったのは、昭和16年なので、A雄さんは開戦前にトラック島で亡くなっているのである。ではA雄さんは、トラック島で何をしていたのか?ヒントとなるのは、死亡を届け出した橋口さんという方である。この橋口さん、馬場家の戸籍をよく見てみると、思わぬところで再登場する。実は、A雄さんのお姉さんの夫、即ち義兄だったのである。兵隊が親族と同居するはずがないので、恐らくA雄さんは、民間人としてトラック島にいたのだろう。f:id:bbbshinya:20200530105856j:plain

左:A雄さん、右:お姉さん 共に橋口さんと関係がある

 南洋群島とは、フィリピンの東に位置するマリアナ諸島パラオ諸島カロリン諸島マーシャル諸島を指し、トラック島はカロリン諸島の島々の一つである。これら南洋群島は、ドイツの植民地であったが、第一次世界大戦で連合国側に付いた日本は、これら南洋群島からドイツ軍を追い出し、占領した。そして戦後、正式に日本の植民地となったのである。その後、多くの日本人が新天地を求めて、これら南洋群島に入植したが、特に鹿児島からの入植は多かったようである。労働賃金も安く、土地も火山灰でやせていた為、新天地を求める人が多かったのかもしれない。南洋群島では水産物、燐鉱石、コーヒー、砂糖、そしてタピオカなどの商売が人気だったようである。f:id:bbbshinya:20200530110147j:plain

南洋群島

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トラック諸島

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トラック諸島夏島医院 ちょっと見難いが奥の建物がそうか?

 A雄さんが亡くなった経緯は分からないが、トラック島で何をしていたのかは、資料を調べてみると、なんとなく分かった。その資料とは、昭和13年発行の「大南洋興信録」という本であり(※1)、南洋群島に渡り、商売をしている人の商人録のようなものである。そこに同居人「橋口さん」が記載されていたのである。f:id:bbbshinya:20200530110637j:plain

大南洋興信録 表紙

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橋口商店 椰子の葉で商売!原価はほぼゼロ!

 これによると、橋口さんは、トラック島で椰子帽の原料となる椰子の葉を移送する「橋口商店」を営んでいたらしい。橋口商店では、他の店では殆ど見られない電話も引いており、結構儲かっていたと思われる。恐らく、A雄さんは義兄である橋口さんの橋口商店を手伝っていたものと予想される。だが、何か不運なことが起こり、亡くなったである。故郷から遠く離れた南の島で亡くなることとなり、さぞや無念であったろう。私は何も出来ないが、それから80年が経っていても、こうやって色々と調べ、想ってあげることが少しでも供養になれば、と思う。その後、戦争が始まったが、サイパン島の民間入植者は、多くが逃げ遅れ、バンザイクリフから身投げする悲劇が起きている。トラック島ではこのような話は聞かないが、橋口さんは、無事に脱出出来たのだろうか。

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南洋群島 日本人の経営する商店のほんの一部

 しかし、まぁ。。。なんと多くの日本人が入植していることか。遥か南の島は日本の商店だらけだったのである! 開戦直前には、原住民よりも日本人の方が多くなっていた。他人様の領土で、これはいただけない。このとき日本は道を踏み外していた。だが、お膳立てをしたのは、列強国である。南下するソ連アジア諸国を次々に植民地化する欧米諸国。島国日本は、南北から包囲され、いつ自身も列強国に植民地化されるか分からなかったのである。その恐怖にさらされ、領土拡大政策を採ることで、本土を守備しようと考えてしまった日本。どちらが悪かったのかというと、どっちもどっち、メクソハナクソである。確実に言えるのは、最大の被害者は、島を戦場にされてしまった原住民である。

 

 

※1)ちなみにこの本は国会図書館デジタルアーカイブで閲覧することが出来る。