先祖調査16 ~熊本の話~

 ちょっとだけ脱線して熊本の話を。

 

 私は11年程度、熊本に住んでいたが、鹿児島以上に明治の歴史が盛りだくさんであった。その一つが神風連の乱である。神風連の乱は、不平士族の反乱として、萩の乱佐賀の乱と同じ位置づけで語られることが多いが、その性格は全く異なるものである。これまでの乱は士族籍剥奪や俸禄の廃止などに対する不平から発したものであるが、神風連の乱は、西洋化に怒った元士族の過激国粋主義者の反乱である。この乱には損得感情はないのである。蜂起した反乱軍は、170余名で熊本鎮台、県令宅、県民会議議長宅(現在の鶴屋百貨店熊本市役所付近)などを襲い、鎮台司令官などを殺害した。しかし鎮台兵の反撃にあい、首謀者の太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)は熊本城付近で戦死。反乱は翌日には鎮圧された。元より反乱軍は勝つつもりは無く、死ぬ覚悟であったのだろう。最新の武器を装備する鎮台兵に武具と刀で立ち向かったのである。政権が天皇に戻り、昔ながらの天皇を中心とした政治になることを期待していた彼らは、何よりも西洋化が許せなかったのである。そしてこの乱は、やがて西南戦争の伏線となるのである。

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神風連の乱 錦絵 右が反乱軍

 熊本には鹿児島以上に西南戦争の戦跡が数多く残る。蜂起した薩軍に包囲された熊本城を救出する為、官軍は博多に上陸し、南下して熊本城に向かうのだが、大砲を引いて通れる道は植木の田原坂のみだったのだ。どうしても田原坂を抜きたい官軍。絶対に通すわけにはいかない薩軍。2週間の戦闘で両軍合わせて3000人近い兵士が死に、ついに官軍が田原坂を抜いたのである。田原坂西南戦争で最大の激戦地であったが、植木町には吉次峠など、他にも多くの戦場跡や本陣跡、官軍・薩軍墓地がそこらにある。包囲を解いた薩軍は、後退しながらも抵抗し、熊本城東側方面で戦闘を繰り広げ、益城熊本中が戦場となったのである。私の職場のあった肥後大津付近では、薩軍三番小隊長の野村忍介が善戦したが、やがて薩軍は総崩れとなり、馬見原方面に退くことになる。

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植木の官軍墓地 熊本は戦跡だらけである

 

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こっちは薩軍墓地

 曽祖母・森元ミヤの旧姓は石神である。姓は違えども、こちらも立派な直系の先祖である。その曽祖母の父の名を郷土資料に発見した。西南戦争薩軍として従軍していたらしいのだ。但し、懲役者名簿には載っていない。恐らく、出兵して早々に軍を離脱したのかもしれない。とてもじゃないけど、薩軍に勝ち目は無いと思ったのだろうか。同一人物だろうか?少し調べてみたのだが、どうも年齢が合わない。私の先祖の覚兵衛さんは天保三年生まれなので、西南戦争当時は45歳になるはずだが、郷土資料の覚兵衛さんは27歳なのである。まぁ、この時代の記録なんていい加減なものだから間違いなんてこともあるかもしれないが、さすがにこれを否定すると何も信用出来なくなる。まぁ、コロナが収まったら、いつの日がもうちょっと調べてみたいことの一つである。

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西南戦争に行った覚兵衛さん27歳(左)と先祖の覚兵衛さん(右) さすがに別人か?