先祖調査4 ~金禄公債②~

 さて、コピーを送って頂いた。1頁目。明治の匂い、テンション上がる!

じゃん。

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造右衛門様キタ~!天保六年生まれの私の高祖父である。我が先祖は、父が言っていた通り、やはり士族だったのだ。造右衛門様は、家禄支給を廃される代償として、300円の金禄公債を受取っていたのである。ところで、薩摩では士族は珍しくとも何ともない存在である。通常、藩内で士族が占める割合は5~10%程度であり、多くは城下で生活していた。しかしながら、薩摩藩では、3割程度という尋常ではない人数の士族を抱えていたのである。これは関ヶ原の戦で領土を大減封されたにも関わらず、藩士の数を維持した結果である。そして多くの武士達は城下には収容出来ず、国内に100ヶ所程度の外城(郷)を置き、その外城に武士を住まわせたのである。外城に土着した武士は、やがて郷士と呼ばれるようになり、まぁ半農半士のような生活を送った。造右衛門様は、そのような郷士の一人であったのであろう。

 

 さて、造右衛門様はどのような生活を送られていたのであろうか?この証文を元に、勝手に分析してみた。まず、金禄公債として300円を受領している。この金禄公債令は明治九年に公布されたのであるが、この当時、薩摩は独立国の如き様相を呈しており、中央政府の指示など完全無視。そうこうしている内に、西南戦争が勃発し、結局薩摩で金禄公債が交付されたのは、明治十五年前後である。金禄は30年程度で償還される公債であったが、民間に売却することも可能であったらしい。造右衛門様はどのようにされたのであろうか?

 ちなみにこの300円というのは、現在の価格に換算すると、概ね6~800万円に相当する。退職金としては良い金額であるが、他の人と比べどうなのだろう?参考までに、70名分程度のコピーを貰ったのであるが、200円以下26名、240円6名、300円35名、400円2名であったので、平均的な薩摩の郷士であったのであろう。参考までに140円を受領している某人物の証文を見てみる。

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 この証文には、「賞典残七年」という記載がある。賞典禄というのは、功労者に送られる禄であるが、この時代で下級士族が賞典禄を獲得出来る機会といえば、恐らくは戊辰戦争への従軍ではなかろうか。造右衛門様の証文には記載が無い為、戊辰戦争には従軍しなかったのであろう。また、「懲役」と記載も見られる。これは西南戦争薩軍に付いたことに対する「懲役」と思われる(※1)。だが、これは進んで従軍したのだろうか?そもそも、明治の地租改正や秩禄処分などは、領地の年貢で生活している城下士にとっては生活に関わることであるが、自作地を持ち、少ない禄で自活している郷士にとっては、どちらでもよいことであり、反乱する必要など何も無いのである。しかしながら、郷士達は従軍の指示を断ると、即座に斬られることもあり、多くは半ば強制的に駆り出されたのである。この人も強制的に駆り出されたのであれば、懲役まで食らい、さぞや災難であったろう。造右衛門様、当時42歳。この時代では高齢であった為、どうにか出兵を免れたのであろう。

 

う~む、この証文だけから色々なことが推測出来た。ところで造右衛門様のお墓は、まだあるのだろうか。出来ればこの目で見てみたい。

 

 

*1)「西南の役薩軍口供書(吉川弘文館)」にこの人物の懲役記録と供述調書が記載されている