先祖調査18 ~南の島~

 私の父方祖父の旧姓は馬場である。祖父は私が5歳ごろに亡くなっており、祖父の事は殆ど何も覚えていないので、もちろん祖父の兄弟の名前も古い戸籍を見て初めて知ったのである。そんな祖父の兄弟で、目に止まった人がいた。A雄さんといい、祖父より6歳下で明治44年生まれであるが、その馬場A雄さんは、昭和15年南洋群島トラック諸島夏島トラック医院で亡くなっている。トラック島と聞くと、太平洋戦争激戦地のイメージが強く、「自分の親族にもやはり戦争で亡くなった人がいたのか」と思っていたのであるが、よくよく考えてみると、太平洋戦争が始まったのは、昭和16年なので、A雄さんは開戦前にトラック島で亡くなっているのである。ではA雄さんは、トラック島で何をしていたのか?ヒントとなるのは、死亡を届け出した橋口さんという方である。この橋口さん、馬場家の戸籍をよく見てみると、思わぬところで再登場する。実は、A雄さんのお姉さんの夫、即ち義兄だったのである。兵隊が親族と同居するはずがないので、恐らくA雄さんは、民間人としてトラック島にいたのだろう。f:id:bbbshinya:20200530105856j:plain

左:A雄さん、右:お姉さん 共に橋口さんと関係がある

 南洋群島とは、フィリピンの東に位置するマリアナ諸島パラオ諸島カロリン諸島マーシャル諸島を指し、トラック島はカロリン諸島の島々の一つである。これら南洋群島は、ドイツの植民地であったが、第一次世界大戦で連合国側に付いた日本は、これら南洋群島からドイツ軍を追い出し、占領した。そして戦後、正式に日本の植民地となったのである。その後、多くの日本人が新天地を求めて、これら南洋群島に入植したが、特に鹿児島からの入植は多かったようである。労働賃金も安く、土地も火山灰でやせていた為、新天地を求める人が多かったのかもしれない。南洋群島では水産物、燐鉱石、コーヒー、砂糖、そしてタピオカなどの商売が人気だったようである。f:id:bbbshinya:20200530110147j:plain

南洋群島

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トラック諸島

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トラック諸島夏島医院 ちょっと見難いが奥の建物がそうか?

 A雄さんが亡くなった経緯は分からないが、トラック島で何をしていたのかは、資料を調べてみると、なんとなく分かった。その資料とは、昭和13年発行の「大南洋興信録」という本であり(※1)、南洋群島に渡り、商売をしている人の商人録のようなものである。そこに同居人「橋口さん」が記載されていたのである。f:id:bbbshinya:20200530110637j:plain

大南洋興信録 表紙

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橋口商店 椰子の葉で商売!原価はほぼゼロ!

 これによると、橋口さんは、トラック島で椰子帽の原料となる椰子の葉を移送する「橋口商店」を営んでいたらしい。橋口商店では、他の店では殆ど見られない電話も引いており、結構儲かっていたと思われる。恐らく、A雄さんは義兄である橋口さんの橋口商店を手伝っていたものと予想される。だが、何か不運なことが起こり、亡くなったである。故郷から遠く離れた南の島で亡くなることとなり、さぞや無念であったろう。私は何も出来ないが、それから80年が経っていても、こうやって色々と調べ、想ってあげることが少しでも供養になれば、と思う。その後、戦争が始まったが、サイパン島の民間入植者は、多くが逃げ遅れ、バンザイクリフから身投げする悲劇が起きている。トラック島ではこのような話は聞かないが、橋口さんは、無事に脱出出来たのだろうか。

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南洋群島 日本人の経営する商店のほんの一部

 しかし、まぁ。。。なんと多くの日本人が入植していることか。遥か南の島は日本の商店だらけだったのである! 開戦直前には、原住民よりも日本人の方が多くなっていた。他人様の領土で、これはいただけない。このとき日本は道を踏み外していた。だが、お膳立てをしたのは、列強国である。南下するソ連アジア諸国を次々に植民地化する欧米諸国。島国日本は、南北から包囲され、いつ自身も列強国に植民地化されるか分からなかったのである。その恐怖にさらされ、領土拡大政策を採ることで、本土を守備しようと考えてしまった日本。どちらが悪かったのかというと、どっちもどっち、メクソハナクソである。確実に言えるのは、最大の被害者は、島を戦場にされてしまった原住民である。

 

 

※1)ちなみにこの本は国会図書館デジタルアーカイブで閲覧することが出来る。

先祖調査17 ~市来馬改帳~

 さて、次に目を付けた郷土資料は、「くしきの 24号」である。地元の郷土研究会が定期刊行している雑誌で、郷土資料というか、タウン誌的な感じだろうか。地元の古文書研究会の定例会で課題となる古文書を決めて、それを読解するというのが雑誌のコンセプトらしい。その雑誌「くしきの」の24号で、「市来馬改帳」という古文書が課題となり、読解されているのである。馬改帳というくらいだから、中身は馬のリストである。市来郷にいる馬をリスト化し、その素性(年齢や飼い主など)を整理することが目的と思われる。馬の頭数なんか管理していたのだろうか。中身はこんな感じである。現物はミミズが這ったような崩文字で書かれているのだろう。作成日は天明六年(1787年)十一月十五日らしい。上から「鹿毛」や「川原毛」など毛色に関する情報、次にその馬の年齢、最後に飼い主の名前、というフォームになっている。

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市来馬改帳。串木野古文書会の皆様、読解有難うございました。

 姓がある人は、武士(郷士)であり、農民と思われる人は、姓は無いが、その代わりに「濱之」や「中園之」といった感じで、頭に「○○之」と記載されている。これは門割制度の門の名前である。門割という言葉は薩摩特有のものであるが、村内の農民を5~10戸程度を一単位としてまとめ、連帯責任を負わせる、いわば五人組のようなものである。それぞれの門には、例えば「濱門」や「中園門」といった固有の名前が付けられている。さてこの改帳、じっくり見ると、、、f:id:bbbshinya:20200523001916j:plain

覚兵衛様登場!

 新キャラ、森元覚兵衛様、登場!覚兵衛様は、「青毛」の14歳の馬を持っていたらしい。この方は我が先祖だろうか?前にも書いたが、少なくとも市来郷では、森元姓は我が家系のみと思われるので、森元覚兵衛様も我が家系の可能性が高い。そして、我が森元家の地「X地区」には、郷土資料によると、以下のような名前の門が存在していたらしい。f:id:bbbshinya:20200523002103j:plain

X地区の門 一覧(郷土史より)

 そして、馬改帳の森元覚兵衛様の近くに記載されている人達は、「内屋敷之 善蔵」「赤崎之 新右衛門」「下之 四郎左衛門」といった感じで、皆X地区の門の名前が書かれている。この辺はX地区の人達を記載しているのだろう。ということは、森元覚兵衛様は、住居について何も記載されていないが、恐らくX地区に住んでいたと考える方が自然である。つまりは、森元覚兵衛様は、我が森元家と同じ地区に住んでいたことになる。う~む、これは先祖の可能性が高いと言っていいのではなかろうか。天明六年。作左衛門様の父であろうか。

 

 ちょっと脱線。明治になり、農民も姓を持つようになったが、多くの人は門の名前をそのまま姓にしたらしい。鹿児島県鹿屋市の横山町というところには、かつて「森元門」という門が存在しており、今でもある地域に森元姓が密集しているらしい。なぜ市来には、森元は“ぽつんと一件”なのだろう?もしかしたら、ずっと昔に、この森元密集地から移住してきたのだろうか?どんどん課題の難易度は上がっていくが、いつの日か探り当てたい。とにかく今は、図書館すら閉鎖されてしまい、調査にならないのである。

先祖調査16 ~熊本の話~

 ちょっとだけ脱線して熊本の話を。

 

 私は11年程度、熊本に住んでいたが、鹿児島以上に明治の歴史が盛りだくさんであった。その一つが神風連の乱である。神風連の乱は、不平士族の反乱として、萩の乱佐賀の乱と同じ位置づけで語られることが多いが、その性格は全く異なるものである。これまでの乱は士族籍剥奪や俸禄の廃止などに対する不平から発したものであるが、神風連の乱は、西洋化に怒った元士族の過激国粋主義者の反乱である。この乱には損得感情はないのである。蜂起した反乱軍は、170余名で熊本鎮台、県令宅、県民会議議長宅(現在の鶴屋百貨店熊本市役所付近)などを襲い、鎮台司令官などを殺害した。しかし鎮台兵の反撃にあい、首謀者の太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)は熊本城付近で戦死。反乱は翌日には鎮圧された。元より反乱軍は勝つつもりは無く、死ぬ覚悟であったのだろう。最新の武器を装備する鎮台兵に武具と刀で立ち向かったのである。政権が天皇に戻り、昔ながらの天皇を中心とした政治になることを期待していた彼らは、何よりも西洋化が許せなかったのである。そしてこの乱は、やがて西南戦争の伏線となるのである。

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神風連の乱 錦絵 右が反乱軍

 熊本には鹿児島以上に西南戦争の戦跡が数多く残る。蜂起した薩軍に包囲された熊本城を救出する為、官軍は博多に上陸し、南下して熊本城に向かうのだが、大砲を引いて通れる道は植木の田原坂のみだったのだ。どうしても田原坂を抜きたい官軍。絶対に通すわけにはいかない薩軍。2週間の戦闘で両軍合わせて3000人近い兵士が死に、ついに官軍が田原坂を抜いたのである。田原坂西南戦争で最大の激戦地であったが、植木町には吉次峠など、他にも多くの戦場跡や本陣跡、官軍・薩軍墓地がそこらにある。包囲を解いた薩軍は、後退しながらも抵抗し、熊本城東側方面で戦闘を繰り広げ、益城熊本中が戦場となったのである。私の職場のあった肥後大津付近では、薩軍三番小隊長の野村忍介が善戦したが、やがて薩軍は総崩れとなり、馬見原方面に退くことになる。

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植木の官軍墓地 熊本は戦跡だらけである

 

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こっちは薩軍墓地

 曽祖母・森元ミヤの旧姓は石神である。姓は違えども、こちらも立派な直系の先祖である。その曽祖母の父の名を郷土資料に発見した。西南戦争薩軍として従軍していたらしいのだ。但し、懲役者名簿には載っていない。恐らく、出兵して早々に軍を離脱したのかもしれない。とてもじゃないけど、薩軍に勝ち目は無いと思ったのだろうか。同一人物だろうか?少し調べてみたのだが、どうも年齢が合わない。私の先祖の覚兵衛さんは天保三年生まれなので、西南戦争当時は45歳になるはずだが、郷土資料の覚兵衛さんは27歳なのである。まぁ、この時代の記録なんていい加減なものだから間違いなんてこともあるかもしれないが、さすがにこれを否定すると何も信用出来なくなる。まぁ、コロナが収まったら、いつの日がもうちょっと調べてみたいことの一つである。

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西南戦争に行った覚兵衛さん27歳(左)と先祖の覚兵衛さん(右) さすがに別人か? 

先祖調査15 ~郷土愛の塊のような本を見つけた③~

 さて、この森元平角なる人物、何者なのか?まず考えないといけないのは、たまたま苗字が同じだけの人ではないのか?ということである。結論から言うとその可能性は低いと思う。明治初年の士族の退職金である金禄公債は、ほぼ全ての士族が受領しているはずだが、市来郷の受領録で森元姓は、高祖父の造右衛門様のみであった。従って、少なくとも幕末~明治初年の市来郷士族399人の中で、森元姓は我が家系のみである。では、平民(※1)ではどうか?一般に江戸時代、平民は苗字を持っていなかったと思われているが、これは間違いである。公には名乗れなかっただけで、自分で勝手に付けた苗字は罷り通っていたのである。例えば、検地帳などは公の文書なので、苗字は記されないが、神社などの寄進録には苗字が記されることも多い。しかしながら、平民の多くは住んでいる場所や、職業に因んだ苗字を名乗ることが多く、森元姓を名乗る可能性は低いと思われる。ちなみに、参考データとして1970年時点でのこの地域のゼンリン住宅地図をくまなくスキャンしたが、我が本家以外に森元家は見付からなかった(もうちょっと昔の住宅地図があればいいのだが)。これらの状況を踏まえると、市来郷に他の森元家がいた可能性は低いと思う。もちろん、他郷には別の森元家もあるのだろうが、異なる地域の神社にわざわざ寄進するとも思えない。ということで、森元平角なる人物は、我が血縁である可能性が高いと思うのである。もうちょい明確な物的証拠があればすっきりするのだが、この時代のこと、どうしても状況証拠から推測せざるを得ないのである。

 

 私は当初、平角様は作左衛門様の父親であろうと思っていたのであるが、最近ちょっと自信が無くなってきた。実は、「平角」とは幼名ではなかろうか?ということである。一般的に男子は、16歳で元服し、名前を幼名から「~衛門」や「~兵衛」などという元服名に改めることが多い。そして「平角」という名前は、いかにも幼名っぽいのである。う~む、どうなのだろうか。素人の私には分からない。こちらは「串木野郷士明細帳」という、お隣の郷の士族名簿のようなものである。例えばこちらの方々は、

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星原平角クンは6歳!

         

        当年八十歳 家督 星原惣右衛門

          同 六歳   嫡子 星原平角

 

である。八十歳でまだ家督を持っているとか、その嫡子が六歳とか、色々と別の疑問が湧くが、それはともかくとして、こちらのご家族においては、「平角」君は六歳なのである。もちろん、時々、家督を持っている人が「八郎」とか「市二」とか、幼名っぽい名前であるケースもある(といっても、素人の私には、「幼名」を正確に識別出来ているわけではない)。だが、どうしても違和感があるのだ。「森元平角」様は「森元作左衛門」様の幼名なのだろうか?戸籍によると、造右衛門様は、嘉永六年に家督相続しており、このときに作左衛門様は亡くなったと思われる。

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嘉永六年家督相続 ペリーが浦賀に来たときである

60歳で亡くなったと仮定すると(※2)、寄進碑が建立された享和三年当時は、作左衛門様は約6歳となる。既に生まれており、恐らくまだ幼名であろう。う~ん、一応時間的には矛盾しないが、どういう状況だろう?手洗い鉢などを寄進して、子供を大事に思うあまり、その名前を刻んで貰ったという状況だろうか?う~ん、これはこれで違和感がある。子供を大事に思う気持ちは今も昔も普遍のものだが、わざわざ戸主を差し置いて、子供の名前を寄進碑に刻むような、現代風で平和な価値観が当時の薩摩にあっただろうか?断トツで封建王国だった江戸時代の薩摩である。そんなことはしないような気がする。それほど戸主の力は家族の中で絶対だったのである。

 

 というわけで、素人には判断出来ない要素が多く(※3)、はっきりとは分からない。もし「森元平角」が幼名なら、作左衛門様か、若しくはその兄弟か。さもなければ、父親ということになろう。だが、現在のところ、6:4程度で幼名の可能性が高いと思っている。調査を進めれば、いつか判明する日が来るだろうか。

 

 いや~、本当に貴重な資料であった。徳永先生、有難うございます!そして、本で見るだけでなく、是非とも実物を見に行きたいものである。だが、この本は昭和50年の版である。石碑の風化はどんどん進んでいるであろう。早く2度目の鹿児島行きを果たさねばならない。だが今は、コロナのせいで何も出来ないのである!

 

 

※1)あまり「平民」などという言葉は使いたくないが、歴史的な用語なので、敢えてそのまま使うことにする。ご了承頂きたい。

※2)江戸時代の平均寿命は30~40歳程度であるが、それは乳幼児死亡率が非常に高いからである。これを乗り切った人達の平均寿命は概ね60歳程度であった。造右衛門様も約60歳で亡くなっている。

※3)そもそも、元服とか改名とか幼名とかは、旗本などのそれなりに身分のある武家の儀式であろうと勝手に思い込んでいたのだが、農村に住む郷士でもこのような習慣があったのか?それすら素人の私には分からない。

先祖調査14 ~郷土愛の塊のような本を見つけた②~

 私は更に頁をめくり、読み進めた。すると今度は、同じく稲荷神社の庚申供養塔が目にとまった。庚申信仰とは、中国の道教に起源を持ち、庚申の日(60日に1度)の夜に体から虫が這い出てきて天帝に自分の悪事を告げ口するので、虫が出てこぬよう、夜通し講を開いたり、どんちゃん騒ぎしたりするという風習である。そもそもは概念というか、教えのようなものであったが、これが日本に伝わると独自の進化を遂げ、供養塔を建てたり、仏教と融合して青面金剛像を祀ったりするようになったのである。と何かの本に書いてあった。ともかく、その庚申供養塔には、、f:id:bbbshinya:20200424231635j:plain

文政七年、作左衛門様の活躍

 ああっ!ここにも作左衛門様の名前が!火鉢と手洗鉢を寄進し、庚申供養塔を建立したらしい。時に文政七年三月吉祥日。天保九年の百文寄進から16年遡っているが、連名の人達の名前を見ると、何人か同じ人もいるようである。仲よしグループだったのかな?おや?よく見ると、名前が「森元作左右門」になっている。う~ん、なんだろうね、これ。恐らく石工の彫りミスか、若しくは徳永先生の記入ミスか、どちらかだろう。律令政治時代、「左衛門」「右衛門」という名称の官位があったのだが、名前に「~左衛門」とか「~右衛門」を付ける風習が始まったのは、これに由来している。と何かの本に書いてあった。だから「左右門」なんて名前は有り得ない。左か右かどちらかである。これは私の勝手な解釈であるが、どうだろう?だが、江戸時代の人で、名前に「左右」が入っている人は一度も見たことがないし、的外れな解釈ではないと思う。これは正しくは「森元作左衛門」で間違いなかろう。

 

 そうだったのか、我が祖先は庚申信仰があったのか。う~む。やはり庚申の日は夜通しどんちゃん騒ぎしたりしたのだろうか。数少ない楽しみの一つだったのかもね。私は更に頁をめくった。すると、同じく稲荷神社に祀られている青面金剛像が目にとまった。先述の通り青面金剛像も庚申信仰に由来するものであり、この像は、享和三年(1803年)のもので、文政七年の庚申供養塔建立から更に20年遡る。幕末とは言えない程度にまで遡っている。そこには、、、f:id:bbbshinya:20200424233211j:plain

新キャラ登場か?

ん?森元平角??知らない方。。。戸籍にも登場しない。もしかして。。。私は。。。戸籍を越えたのか。。。?

先祖調査13 ~郷土愛の塊のような本を見つけた~

  戸籍で遡れる先祖は、明治19年に存命であった方までで、古くても江戸末期の文化・文政年間程度生まれの方ではなかろうか。だが、先祖調査の醍醐味は、色々な資料を元に戸籍を越えたその前を追及することである。その手法として、本家で檀那寺を教えて貰い過去帳を調べなさい、としばしば目にする。しかし、現段階では私は優先順位を下げている。なぜなら、鹿児島では過去帳の調査が有効ではない為である。薩摩や水戸では、明治初期の廃仏棄釈が激しく、殆どの寺がその時に一度廃寺になっており、従って昔の過去帳は残っていない可能性が極めて高いのである。仮に残っていても、最近は個人情報に抵触する為、過去帳を開示してくれないお寺も多い。そもそも、初めて訪問する本家で檀那寺を探り出す度胸は無かった。ということで、私は地元の郷土資料を漁ることとした。地元の郷土資料など、地元に行かねば見られないであろうと思うことなかれ。その名は国会書館。日本で刊行されるほぼ全ての書物や資料を蔵書しているのである(※)。我が鹿児島の聖地の書物を調べると町誌や郷土資料など相当数があった。その中で、とても気になる資料が検索された。それは「古文書と石塔をたずねて」といい、徳永律さんという地元の郷土研究家の書物である。我が聖地は市来という町のXという地区なのだが、この地区にある石塔や神社棟札を全て調べた上げた本なのである。なんとマニアックでニッチな本か!

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なんともマニアックだがその分、中身が濃い

 徳永先生の根性と、そんなローカルな本を蔵書している国会図書館に敬意を表したい。私はどきどきしながらページをめくったが、中身は想像を超える凄いものであった。神社の棟札や、道端の石塔などに記載・刻印されている文字・模様・人名などが全て書き写されているのである。棟札とは社や堂の改築・移設の際に由緒顛末や寄進者、氏子などを木札に記し、梁や柱に貼り付けたものである。

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棟札(イメージです) Wikipediaより引用

この地区の地元の稲荷神社という神社には、4枚の棟札が残っているらしいが、その中の1枚は、、、ん?f:id:bbbshinya:20200418203022j:plain

作左衛門様、天保九年の寄進

ああっ!この方は!戸籍に名前だけ登場した作左衛門様ではないか!f:id:bbbshinya:20200418203844j:plain

戸籍に名前だけ登場する作左衛門様

 天保九年に稲荷神社に寄進されたらしい。鳥目とは、銭貨のことであり、4000文=1両≒10万円である。即ち「鳥目百文宛」とは、「銭100文(=約2500円)づつ」ということである。上に書かれている人達は、「雄牛一匹」を寄進したということか。神社に牛を寄進するとはどういうことだろうか。食用ではないであろうから農耕用か。この時代では神主さん達も農耕をしたのだろうか。この地域では農耕用家畜は、殆ど馬だったようなので、牛はとても有難い寄進だったのかもしれない。しかし、寄進とは心である。作左衛門様も三石六斗(=約36万円相当)という微禄から百文も寄進されているのである。造右衛門様はこのとき三歳。江戸時代、人々の最大の願いは子孫繁栄である。作座衛門様も子孫繁栄を祈り大金を寄進されたのだろう。作左衛門様、あなたが寄進されてから200年近く経ちますが、今でもその偉業は子孫に語り継がれております!

 

※)それでもやはり一部は地元図書館にしかない書物もあり、そのようなものは図書館相互貸借システムなどで、取寄せることも可能である。但し、そのような書物は多くは貴重資料であり、禁帯出であることが多い。その場合はコピーを取寄せるしかないのである。

先祖調査12 ~昭和28年祖父母の謎の行動~

  さて、最初のころにちょいと書いたことがあるのだが、古い戸籍を見て気付いたことの一つに、馬場姓の祖父と、森元姓の祖母は、昭和28年に離婚し、1ヶ月後に再婚するという謎の行動をしている。このとき、祖母の籍に入り直しており、馬場姓から森元姓になっている。どう見ても、姓を変更する為の行為としか考えられない。なぜ姓を変更する必要があったのか?永らく謎だったのであるが、ついにその謎を知るすることが出来た。少し前に伯父(父の弟)が亡くなり、手を合わせに行ったのであるが、その時に奥さんから教えて頂いたのである。

「そう言えば、爺さん婆さんは、或る時に馬場姓から森元姓になってるみたいなんですけど、知ってますか?」

「ああ、もちろん知ってんで。昔に爺さんから直接聞いたわ。その理由はなぁ、、、」

やばい、理由を教えてくれそうだ。あえて苗字を変えるなんて、ロクな理由であるはずがない。例えば身内から重犯罪者が出たとか。だが、それも我が森元家の歴史なのだ。全て受け止めるしかない。私は聞く覚悟を決めた。

「大阪ではババっていう苗字やったら子供がウンコって言われていじめられるやろ。せやから森元に変えてんやって。」

そういうことだったのか!確かに大阪ではババはウンコなのである。目からウロコが落ちた。思い起こせば、小学生のころは、ジャイアント馬場でさえ、「大きいウンコ」扱いされていた記憶がある。大きな謎が解明されたが、腑に落ちないところもある。昭和28年なら父は15歳、一番上の兄は25歳になっている。周りの人たちも馬場君をウンコ呼ばわりしていじめるような歳でもなかろうに。突然姓が変わる弊害の方が大きいのではないだろうか。その時、私はふと思った。もしかしたら、祖父母は我々孫衆のことを考えてくれたのではなかろうか。そうか!爺さん婆さん!あなた方が姓を変更するという大決断をして下さったお陰で!私は!!ウンコ扱いされずに済みました!!!祖母は私が1歳のころ、祖父は5歳のころに亡くなっているので、殆ど記憶が無い。だが、私はこの時、確実に祖父母の優しさと懐の深さに触れることが出来た。

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昭和28年 祖父母偽装工作中(笑)

 ところで、なぜそれが昭和28年だったのか?祖父母は昭和初期に鹿児島から大阪に移住している。そして5人の息子(=私の父兄弟)は、皆大阪で生まれている。その時にそうすればよかろうに。だが、その時は、本籍は鹿児島のままで、姓も馬場のままである。恐らくは、その時は大阪に定住するつもりは無く、せいぜい数年の出稼ぎ程度のつもりであり、従って本籍も姓もそのままだったのではないだろうか。事実、大阪への空襲が激しくなると、息子達を先に鹿児島の親族に預け、ほどなくして祖父母も鹿児島に戻った。祖父は馬場家の長男だったので、家を継ぐつもりだったのだろうが、昭和24年に、祖父の父(即ち私の曽祖父)の彦太郎が亡くなると、その後、馬場家を継いだのは長男の祖父ではなく、その妹であった。何があったのかは分からない。だが、それで祖父は昭和28年に再び鹿児島を離れて、大阪に移る決心をした。今度は骨を埋めるつもりで。本籍も大阪に移し、子孫の事を想い、姓を森元に変えたのである。

 まぁ、叔母の話と戸籍の変遷から、私が勝手に推測したことである。いずれにせよ、祖父母の残した功績は事実であり、後世まで語り継がれるべきものなのである!